10ヵ寺まわった(長いです)
つかれたー!
今日鎌倉に行きまして11ヵ寺歩きで回りました。
ひとつめ。
安国論寺。
手水鉢に紫陽花が飾られており綺麗でした。
拝観料300円(たしか)。
着いたらちょうどお葬式の最中で、邪魔にならないように人の波が去るまで本堂のお参りを待ちました。
御本尊わからず。(ぐぐったけどわからんかった)
ふたつめ。
妙法寺。
御本尊わからず。
みっつめ。
大寳寺。
御本尊わからず。
こちらも街のお寺といった風情で、拝観料などはなし。
本堂で住職が読経してた。
よっつめ。
安養院。
北条政子が開祖。
拝観料100円。
こちらも法事の最中でした。
今日まわったお寺で唯一御本尊のご真言パネルがあったところでした。
ロウソクたてもあり、ちいさいながらも良いお寺でした。
いつつめ。
常栄寺。
拝観料はなし。
境内にお稲荷さんがおりました。
このときぐらいから晴れ間がのぞき、暑さが厳しくなってきました。
湿度が高すぎて汗が絶え間なく滝の如しでした。。
むっつめ。
本覚寺。
大きな敷地のお寺でした。
拝観料なし。
本堂の扉は閉まっていて、御本尊わからず。
ななつめ。
妙本寺。
拝観料なし。
山門、建物がとてもりっぱでした。
本堂よりも祖師堂のほうが立派でした。
本堂の御本尊わからず。
八つ目。
妙隆寺。
こちらは二回目。
小さなお寺だけど、中々ショッキングな逸話があるお寺。
御本尊わからず。
ここで疲れすぎて休憩。
カフェにてカレーを食す。
九つ目。
宝戒寺。天台宗。
ここも2回目。
御本尊は地蔵菩薩。
となりには毘沙門天さまがいらっしゃいました。
ようやくここで御朱印をいただきました。
いままで、正直、御本尊すらわからんし、ずっと日蓮宗のお寺が続き、間違ったお経(真言宗のお経)読んでたので御朱印もらう気になれなかった。
鶴岡八幡宮にもお参り。
歩いて建長寺に。
10寺目。
拝観料500円。
さすが、、ここはすごいねえ。壁に五本線が入ってるだけはあります。
御本尊は地蔵菩薩。
次に11ヵ寺目の円覚寺。
拝観料300円。
壁に五本線があるところはすごいですね。圧巻。
山門の立派さ、境内の広さと立派さはさすがです。
鎌倉時代のお寺、というか本堂はみんな同じ重厚さがありますね。
どっしりとした構えに、華美でない装飾。当時の厳しさを感じて感動を覚えます。
鎌倉でお寺目当てでまわるのは2回目だった。
今回は日蓮宗のお寺ばかりまわっててアウェー感が半端無かったです。
日蓮宗、経文がちがうんですよ。。知らんのですよ、わたし。
臨済宗好きになりました。
禅寺は華美でない装飾がとても素敵ですね。
四国遍路回ってる時はどのお寺も 遍路仕様になってるから宗派関係なく弘法大師のお大師堂がありますし、
収め札入れもあるし、ロウソク立てもある。
どの宗派も仕様が皆一緒なのです。
そして、宗派関係なくみんな真言宗の読経する。
だから宗派を意識することなかった。
鎌倉回ってみて、宗派をとても意識しました。
あと、今回とても困ったのは御本尊が何か分からなかったこと。
当たり前に御本尊の案内がない。
どんな由来のお寺か、とかそういうのはあるけど肝心な御本尊の案内が何一つ無い。
こういう案内の不備(?)に観光寺という印象は拭えないと共にとても残念に思った。
観光客はいっぱいいる。
みんなお賽銭をして手をあわせる。
私は最近、日本人は、決して無宗教ではないのだと強く思っている。
ただ、多様性を受け入れ過ぎて、分かりにくいだけ。それは等の本人にすら分かりにくいほどに。
でも、正月は参拝し、神社仏閣に行けばきちんと手を合わせる。
信仰心とは、具体的な対象が見ているものだけを指すものではなく、やはり日本人としては目に見えぬ、形にできない、なんらかのものに対しての畏怖から生まれるものだと、最近強く思いました。
鎌倉でお寺めぐりをしてみて、参拝者の方の様子を見ると、皆一様に御本尊に手を合わせてる。
何に対して手を合わせてるのかわかってる人なんか少ないだろけど、とりあえずそうするものとしても合わせる。
それが日本人の信仰なのではないかと思うのです。
でも、何に対して手を合わせてるか分からない。何と唱えたら良いのか分からない。
そうした時に、手助けにもなるのが、ご真言のパネルなんじゃないかと。
パネルがあれば、三人に一人ぐらいは分けわからなくても唱えるのではないか。
ご真言というものがあるという事も知らない人もいるとおもう。
そうした人にも仏様によりご真言が違うことを知る機会になる。
仏教の教えはそこからでもいいのではないのでしょうか。
私はそう思うのです。
観光客の多いお寺だからこそ、そうしたことをキチンとして欲しい。
いや、お寺はそういうことをすべきだと私は思いました。
別に週末の参拝者の多い時に本堂の扉を開けよ、とは言いません。
だけど扉を占めるならせめて御本尊が何かの案内を出して欲しいと思いました。
お寺の権威付けのような案内の看板よりやることがあるだろう、と。
そうしたお寺のスタンスが参拝者を観光客以上にはしないのだと思いました。
お寺の役割はそうじゃないだろう。
人の魂の救済とか導く事とか気づきを与えることじゃないのかと、そのためにできることはしようよ。
本堂の扉閉めきって、
何を御本尊としているかも明かさず、
鎌倉のお寺がみんなそうじゃない。
そうじゃないけど
確かにそういうところもある。
お寺のスタンスにも怒りを覚えますが、
観光客を馬鹿にし過ぎだとも思いました。
お前ら御朱印(だけが)ほしいんだろ?的な。
まあ、これは今回まわった私の感想でしかなく、
後日同じ意見を抱くかどうかは分かりません。
違う思いになれたら、とは思いますが。
そんな色んな事を考えさせられた鎌倉のお寺めぐりでした。
ただ痛い事を言うと、そんな中私はいちいち読経したんで、満足しました(お勤めしたかったので)。
最後になりましたが、ある話を。
とあるお寺に行った時に、私と同時にお寺に入った女子二人組みがおりました。
そのお二人は、山門で手を合わせることなくふらふらと境内に入り、目の前の本堂をスルーしてまっしぐらに御朱印受付に。
私は読経を済ませ、終わる頃には二人分の御朱印が出来上がり、二人はお寺から出て行きました。
うん。
スタンプラリーだね。
御朱印の説明や意義の説明もできるお寺さんは鎌倉には少ないのでしょうかね。
スタンプラリーの御朱印帳はスタンプラリー以上の価値は持たないのだろうなって、彼女達を見て思いました。
まあ、こちとら言うても四国遍路して御朱印いただいておりますんで、御朱印帳の重さたるや、って話ですわ。
一回の四国遍路ツーリングに一人15万円以上はかけてるのでな。
それで手元に残るものは御朱印帳だからな(そこ?w)。
そうした彼女達にも、スタンプラリーよりももっと踏み込めるものがそこ(お寺や教え)にあるよ。
っていう気づきを与えて欲しいなあと思った次第です。
ほんと、余計なお世話な話ですが。
以上!